大玉赤・白・黄一本立

11月24日、昼前後は外にいると汗がでるほどの暑さでした。
白が終わらないうちに、出遅れていた赤が何とか開いたので良かったです。

↓ 菊づくり
https://bontsusha.blog.ss-blog.jp/2019-07-16

すでに終わった菊花大会ですが、大玉赤白黄の部(一本立)の規定は、菊丈が90cm~180cmが必要です。
花どころかこの丈基準にも達していません。
しかし、ほとんど手をかけなくても赤・白・黄色が咲きそろったので良しとします。
一応、花色は揃ったので支柱を立て直して整理整頓しました。

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夕食後にチャラチャラとこれをアップしようとしたら、またPCが不調です。
新しいカメラの画像を受け付けない古いPCを、ナダメテナダメテ、アップしました。
まだ連続更新がかかっているので、頑張りました。
明日のことは分かりません。

「掌上石・小品盆栽を愉しむ」を、楽しむ

11月23日、一転して暑いくらいの勤労感謝の日であった。
勤労していないので、ちょっと後ろめたい。
午前中は、作陶した蘭鉢三体の釉薬掛け、午後は友人が開催している「掌上石・小品盆栽を愉しむ」展示会を当市の国登録有形文化財の古民家で鑑賞した。


旧市川家住宅
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高知県四万十川石 石銘「冬木立」
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「周りの山も眠りはじめ、ひっそりと静まりかえった湖畔の寂しさを感じます」と、拾い上げたらしい。
この会を主催した中京水石会と当市盆栽連盟の会長であるOさんの奥様の言葉。

Oさんが推奨した、上記両会々員Kさん(女性)の「松原」
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同じく四万十川石である。
私が行くと、Oさんはいつも他の人の石を褒めたたえて自分の石については一切説明しない、そういう人である。

女性2名が高知まででかけ、よく探石されたものだと思う。
女性活躍時代が窺える。

Oさんが、「けさ掛けた高徳の僧に見えませんか。」と問いかけていた。
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四万十川石 石銘「上人」。

四万十川は、水石の宝庫のように思われる。

水石の知人
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岐阜県土岐石 石銘「飛翔」
「何かが飛んで行きます、つばめに似ている様ですが。」と。

盆栽の若い友人である、もりきちさんの作品
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コガネシダ・ヤマコウバシ・ヒメウチワカエデ・ヒメシャラ・コガネシダ
もりきちさんは、いつも静かで控えめなとても親切な人である。

盆栽連盟の知人(女性)
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真柏・石化ヒノキ・姫美好・野菊・ツメレンゲ

ほかにもたくさんの作品を家人とともに観せてもらった。
男女各3名の作品を紹介したのだが、明日からは自分の作品を看てあげないと拗ねてしまうのではないかと少し心配している。


以下、プー太の父様へプレゼント
2016.04.20の名古屋市中区納屋橋近くの堀川の写真

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金婚式で再び名古屋へどうぞ。
国際ホテル、手配いたしますよ。

↓ プー太の父
https://poo-2002.blog.ss-blog.jp/2019-11-19

大変だった寒蘭展

11月22日、寒い朝だったのだが午前9時までに、名古屋市西区庄内緑地の中部蘭趣会「寒蘭展」へ出かけなければならなかった。
単に約束をしていただけの理由なのだが、名古屋市中区のG20外相会議の日であったとは思ってもいないほど前からの約束だったから。

都市高速を走ると、名古屋の中心部を通ることになり、交通規制にかかるだろうから外回りの一般道で行こうと昨日まで思っていた。
出発直前に、外回りの一般道だと通勤時間帯で渋滞するだろうから高速道設定でナビを入れた。
高速道入り口前でETCカードが挿入されていないと車から指摘されたが、もうバックはできないので620円の料金支払いをしてGO!
1㎞も走らないうちに料金所ですと、また車が言う。今度の料金所には係の人がいて780円だと言う。
「今、620円支払いしたばかりなんだけど-<(`^´)>」
「あそこは、別の高速道です」
「ナニィー!、ETCで走っても同じかッ」と、あたり散らす。
「そうです」
そして、ナビに従って走っていると名古屋の中心部で降ろされてしまった。
ナビの設定を間違えたのか、G20でナビがそういう誘導になっていたのかわからないが、確かに厳戒態勢ではあった。
着予定を40分過ぎて到着したものの、出品者も同じように交通規制でさらに遅れての到着であった。

庄内緑地は、十月桜と紅葉のコラボ。
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会場へ入って、「うちの寒蘭まだ咲かないんだけどー」とつぶやく。
今年は、みんな遅れているとのことであった。
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土佐寒蘭 桃里
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華神
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高知産 無銘
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土佐清水産 無銘
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寒蘭展鑑賞は初体験、即席講習を受けて、全体的な葉姿がよくて花茎がすっきり突き出ている赤花が高価のようであると知る。が、あくまで個人の好みということらしい。

帰りは外回りの一般道にしたのだが、やっぱり規制で渋滞が随所にあった。

最近は比較的、腰の調子はいいのたが肩が凝るし消化不良のような気がしている。
予約していた整形外科の院長に訴えて、理学療法士さんの首、肩甲骨付近のマッサージを受けたら胃もすっきりしてきた。
育てている赤花寒蘭が早く咲いて欲しいことと、明日は、いい日になってもらいたいと思っている。

よくわかる同人誌

11月21日、今朝は4.9℃だったらしい。
寒くてちょっと朝寝をしてしまったうえ、朝食後もPCにへばりついていた。
発行されて昨日受領した同人誌『山波193号』の第1陣分の発送。


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手渡ししたりして読んでもらっている友人や知人らでも、同人誌とはどういうものなのか意外に知られていないことがある。
「山波」の同人が高齢化で減少してしまい、せっかく名古屋市文芸創造団体助成金事業の認定も受けているので廃刊にするのは惜しいと思って、事務局に協力して寄稿者を募っている。
前192号で、花田吾一さんが奇しくも同人誌活動についてのエッセイを寄稿してくれたうえ、中日新聞(東京新聞の親会社といってもいいと思っている)の文芸欄で、評論家の竹中忍氏から高い評価を受けているので紹介しておきたい。



13年間の同人誌活動 花田吾一

 「同人誌」と言っても、この『山波』のことではない。『山波』の同人であり、名西高校の同窓生(半世紀も前の話)だった越智大二さんから「何か書いてみないか」と言われたのだが、このところ怠惰な生活をおくっている身としては、とくに書くことも書きたいこともない。だったら、過去の出来事で何かないか。どんな平々凡々とした人間でも、古稀を過ぎて何もないということはないはずだ。と、考えていて思い出したのが「同人誌」。名西時代に友人たちと始めた同人誌のことを書いてみようかと思った次第。『山波』同人の方々にも「そうそう」と思っていただけるところもあるのではと思う。

 「事件」は、今から50年以上も昔、名古屋の名門?名西(名古屋西)高校で起こった。
 2年生の2学期が始まり、そろそろ受験勉強を始めなければならない時期である。にもかかわらず4人の男たちの話はそんな受験勉強とは全く無関係の議論であった。突然、「同人誌」を出そうという提案がされたのだった。私、花田と神崎、清水という同級生の4人は、それまでも授業中に教師の目を盗んではノートに下手な小説を書き、そのノートを仲間内で回し読みするという「遊び」をしていたのだが、ノートに書いているだけではつまらん、
 「同人誌、出そまい」と、言い出したのは、当時としても珍しい坊主頭の神崎だった。その理由は、
 「ノートも三冊になったし、その中からおもしろいものだけを厳選すれば、読者に十分楽しんでもらえる雑誌ができるのではないか」
 という、とてつもないものだった。
 ノーテンキという言葉があるが、本当にノーテンキな人物が実在することを、私は、このとき初めて知った。どちらかというと人見知りの私にとっては、雑誌を作って第三者にも見せるなどという話はまさに恥の上塗り、いや青天の霹靂、驚天動地。そんな無謀そのものと言える同人誌なんぞ出された日には一生の恥さらしだ。発行を阻止するために、私は、断固として言った。
 「そんなこと言ったって、印刷なんかどうするんだ。金なんてあれせんし」
 今のようなパソコンで簡単に誌面を作れる時代とちがうので、最も安い謄写版印刷ですら学校の謄写版を借りるわけにはいかず、印刷屋に頼めばそれなりの金がかかったのである。アルバイトを禁止されている高校生にそんな金はない。まさしく正論である。神崎と森田は、それはそうだなあ、という顔をした。ところが、
「謄写版なら、俺、持っとるがや」
 という人物がいたのだから世の中、恐ろしい。
 その恐ろしい人物こそ、後に作家になった清水義範だった。いつか同人誌のようなものを作りたいと思い、小遣いを貯めて謄写版、ガリ版、鉄筆など一式を揃えていたというのだから、これはオタク、マニアなどというありきたりの言葉ではとても説明できることではない。私が相手をしているのは、もはや真っ当な人間ではないのだ。
 謄写版があるということで話はトントン拍子に進んでしまい、同人誌製作費用は紙(わら半紙)代を用意するだけということになった。もう時効なので書いてしまうが、当時、空の牛乳瓶を購買部に持って行くと1本5円で引きとってくれた。私たちは授業後の教室をこっそり見回って手に入れた大量の空き瓶を購買部に持って行き、同人誌の費用を捻出したのだった。後に法学部に進んだ私に言わせてもらえば、これはもう立派な窃盗罪、要するに「犯罪」だ。
 というようなどたばたはあったものの、4人の頭文字(含・ペンネーム)からつけられた『MKSZマガジン』なる文字通り手作りの同人誌が1964年10月に発行されたのだった。B5判40ページ。あれほど同人誌の発行に異議を唱えていたにもかかわらず、私自身、しっかりSF短編を書いてしまい(内容は黙秘)、おまけにガリ切り(謄写印刷には原紙をガリ版という細かいやすりのような金属板に載せ鉄筆で文字を書く必要がある)が清水1人では大変だろうとガリ版まで買ってしまったのである。
 こう書いていると、情けないことに私自身、自分というものがわからなくなってくる。次号の資金にと厚かましくも20円で同級生たちに売りつけ、完売。気をよくした4人は、翌年2月に予告通り第2号を発行したのだった(『山波』の読者のために、高校1年のとき同級で、このときは隣のクラスだった越智大二さんも「客分」として参加していたことを付け加えておこう)。

 しかし、受験勉強をしなければならない重要な時期にこんなことをやっていていいわけがない。たとえ親兄弟親戚が許しても遠山桜が許さないのは誰しもが知るところである。当然のように天罰が下り、4人のうち2人は合格できたものの私と清水はあえなく撃沈。さすがに予備校通いの日陰者として日々勉学に勤しむこととなった。いや、そのはずだった。浪人生とは、そうしなければいけない日陰の人間なのだ。ところが、同じ予備校に通うことになった清水が、またとんでもない提案をしてきたのである。
 「このまま一年同人誌のブランクができてまうとせっかく獲得した読者が逃げてまうと思うんだ。何か一冊出しといたほうがええんでねゃあか」
 全く、呆れ果ててものも言えない提案である。親が聞いたら気絶してしまうかもしれない。ところが、そんな提案を、
「受験までには一年もあるし、やるか」
 と、受け入れてしまった私も私だ。机に向かって一生懸命小説を書いている私の後ろ姿を見て、よしよしちゃんと勉強しとるな、と思っていただろう親には本当に困った息子だったと、今になって深く深く反省する次第である。まことに済みませんでした。
 同人誌は、気分一新というわけでもないがせっかくなのでタイトルも変更しようということになり、『スーパー・ノバ』に決まった。第1号はA5判52ページ、売価30円で5月に発行された。さあ、これで受験勉強に突入するぞというところである。ところが、清水の常軌を逸した提案はこれだけでは終わらなかった。暑くなってきた7月、清水が再び恐ろしいことを言ってきたのだ。
 「もう一冊出そまいか」
 「!?」
 おもわず絶句するというのは、こういうことを言うのである。良識ある私としては、言葉も出ない。浪人生として、いくら何でもあり得ない提案ではないか。
 「いくらなんでも、それはあかんだろう」
 私がきっぱりと断ったのは、常識ある行動であり、ある意味当然と言える。浪人生としては、そんなことをしている暇があるのなら、英単語の一つでも覚えるべきである。さすがにこれ以上両親を裏切ることはできない。
 ところが、
 「な、一冊、もう一冊だけ・・・」
 必死の形相でそう頼まれると、つい、
 「本当だな。ホントにもう一冊だけだぞ」
 あえて書いておくが、一冊とか二冊とかいう問題ではないのだ。にもかかわらず、基本的には、勉強したくない、という現実逃避が働いていたとしても、非常識な行動を承知してしまった私も情けない。
 結果、『スーパー・ノバ』第2号は9月に発行された。必死に勉強しならなければならない夏休みの時期に、私は、同人誌向けの小説を書き、ガリ版で原紙を切り、おまけに表紙の絵まで描いてしまったのである。はっきり言って、バカである。いや、別にはっきり言わなくても、間違いなくバカだ。非のうちどころのないバカだ。今この文章を書いていても、こんなことしていてよく大学に合格できたものだと冷や汗ものである。悪運が強かったというか、奇跡と言ってよい。しかし、その過程に何があったにしても、受かってしまえば天下晴れての大学生である。浪人時代のように後ろ指刺されることも自己の良心に恥じることもなく、堂々と同人誌活動ができるのである。その意味でも、大学時代の四年間は同人誌活動が最も順調にいっていた時代だと思う。

 『スーパー・ノバ』は順調に発行され、結局12号まで続いた。さらにその後、謄写印刷からタイプ印刷に変更されて誌名も『飛行船』と変え、彼らが大学を卒業するまでに7冊が発行された。
 タイプ印刷に変更されたのには、もちろん理由がある。
 『スーパー・ノバ』は、別に純文学の同人誌ではなくSFの同人誌でもミステリの同人誌でもない。高校時代の友人たちが遊びで始めた何でも好き勝手に書いている同人誌だった。ただ、4人ともSFが好きだったため毎号必ずSFの短編が載っていたということはある。冷静に考えたらそれは無理だ不可能だとわかってしまうことでも、可能に思えてしまうのが学生時代というものである。だったら「SF特集号」を作って東京で行われるSF大会に乗り込み、売って大儲けしようという話になるのに時間はかからなかった。いかにも、世間知らずの若者たちが考えそうなことではないか。ところが、『スーパー・ノバ』を何十冊も持って東京の大会に出て驚いた。星新一らを輩出した老舗の「宇宙塵」や「宇宙気流」をはじめ、筒井康隆が主催する大阪の「NULL(ヌル)」、名古屋の「ミュータンツ」など名だたる同人誌はいずれもタイプ印刷だったのだ。謄写印刷の『スーパー・ノバ』とは、内容以前に、見た目に格段の差があるのだ。机の隅っこを借りて積み上げてみたものの、無名の同人誌に関心を示してくれる者はほとんどいなかった。惨敗である。
 帰名してすぐに会議が始まった。今ならパソコンで簡単に作れる同人誌も和文タイプの会社に出して印刷してもらうとなると、それなりに費用がかかる。しかし、4人は何よりも「見栄」を重んじる生粋の名古屋人である。内容よりも、まず見た目だ。そのことに誰も異論はない。結婚式には菓子をばらまくのと同様、同人誌はタイプ印刷で出すのだ。足りない分はバイトで補おうぜ、と後先考えずにタイプ印刷に突き進んだのである。
 結局、『スーパー・ノバ』『飛行船』合わせて大学時代の4年間で17冊の同人誌が発行された。季刊以上のペースであり、内容はともかく今の『山波』よりはるかにいいペースである。などと書くと、自慢に聞こえるかもしれないが、自慢である。

 そんな同人誌活動も同人たちの卒業で転機を迎えることになる。
 就職した会社、就労場所が大きく名古屋と東京とに分かれることになってしまったのだ。さてどうするか、ということになるのだが、不思議なことに止めようという意見は一つも出なかった。今にして思うと、大学を卒業して社会の歯車に組み込まれてしまい、平凡な社会人になってしまうのが怖かったのかもしれない。それにしても、慣れない仕事をこなしながら一文の得にもならない同人誌を続けようというのだから、20代前半はまだ馬力のある年齢だったのだろう。社会人になってからの同人誌は、『漠』と誌名を変えて1977年12月の第8号まで発行された。年4回の発行ということでスタートしたものの、さすがに年刊雑誌になってしまった。『山波』に完敗で残念だが続けただけでも意味があったのではないかと思う。
 余談だが(というか、まあ、この雑文すべてが余談のようなものなのだが)、神崎は同人誌が出るたびに勤めている会社の気に入っている女性に、
 「俺、こういうことやっとるんだわ。読んだってちょーせ」
 と手渡しており、それが縁で結婚する運びになったことも記しておきたい。私も清水も森田も、同人誌のそういう使い道があったのか、と地団駄踏んだのだが、もちろん後の祭りであった。
 結局、私の同人誌活動は、10代後半から20代の13年間。出した雑誌は計29冊で終わった。
 これを多いと見るか少ないと見るかは各人で異なるだろう。今にして思うと、どうせなら「切り」のいい30冊まで出すべきだったかなとう気がしないでもない。ただ、いずれにしても、これだけ続けられたのは、やはり「おもしろかった」のだ。それも、他の遊びと比べても、超絶におもしろかったのだ。おもしろかったから、続けられた。古稀を超えた老人としては、今、人生を振り返り「この13年間が自分の青春だった」のだと、あらためて思うのである。

 清水義範が『国語入試問題必勝法』という作品で、この後、大沢在昌、宮部みゆき、池井戸潤らを輩出することになる吉川英治文学新人賞を授賞したのは、それからさらに10年後のことだった。
 授賞式のある帝国ホテルには私も神崎も清水に招待され、式後のパーティーでは寿司やステーキ、メロン、各種ドリンク類など堪能した。その帰り道、神崎が突然つぶやくように言った。
 「花田、」
 「何だ?」
 「同人誌、やってきてよかったなぁ」
 同じことを考えていたんだと、私は思った。かなり親しい友人だったとしても、高校や大学を卒業したらそれっきりというケースは多い。それが、大学がちがっても勤め先がちがってもずっと付き合いが続いてきたのは、まちがいなく同人誌のおかげなのだ。同人誌活動には、そうした意味もあったのだ、と。しかし、高校時代「同人誌、出そまい」などというとてつもない変化球を投げてきた神崎の考えは少しちがうようだった。何十年ぶりかの神崎の大変化球に、私は思わずコケるところだった。
「あんなにうまい寿司やステーキがタダで食べられたんだもんなぁ」
 おいおい、そっちかい!


そういえば、受験勉強(ほとんどしていない)中、参考書に『よくわかる数Ⅰ』などと、よくわかるシリーズがあったような記憶がよみがえった。

もう、クリスマス

11月20日、会友として関わっている同人誌『山波』の193号が出版された今日、いつものように事務局の友人から、名古屋の東の玄関口である「星が丘」で15冊を受け取った。
私の原稿が遅くなって発行も遅れたと責任を感じていたら、もっと遅い原稿があったらしい。
同人誌なのだからそれでいいと思っている。

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「男の料理100選」を書いた私、季刊誌で193号まで続いている歴史ある同人誌なのだから減少していく書き手を減らしてはいけないと、相変わらず恥をさらしているのだが、同人誌なのだから恥もまた良しと思っている。

前号に寄稿してくれた花田吾一さんが今号も書いてくれたのだが、読みごたえがあった。
前号の「13年間の同人誌活動」は、この「山波」の同人らに活力を注いでくれただけではなく、文芸評論家の竹中忍氏が、中日新聞文芸欄に山波192号のエッセイでは「花田吾一の『13年間の同人誌活動』が面白い」と評価してくれている。
一方で、竹中氏は「多くの自費出版の中にきちんとした編集者が目を通さないで本がある。書物は永遠に残り、後世の人も検証するのだから注意したい。」と指摘している。
あんなに何度も読み直し、初稿も目を通していたのに私の原稿で「、」であるべきところが「。」になっていたところがあった。キーボードが隣だからとか老眼が進んだなどは理由にならない。
文章の上手下手以前のことであるから。

ほんの少し落ち込んだところで外へ出たら、名古屋の東玄関口は早くもクリスマスに向かっていた。
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気を取り直して、194号にも参加しよう。
その前に花田吾一さんの「13年間の同人誌活動」の元原稿を探している。PCの不調で初期化する前にバックアップしたつもりだが、今、行方不明。
もちろんこのブログに掲載しようと思っているからだ。