名古屋市守山区大森

4月29日、今日も外出は畑の水やりと食品の買い出しのみ。

昨日の早朝、畑にいたとき家人さんからのスマホが鳴った。救急車が走っているので、もしかして私ではないかとの安否確認であった。私が見たのは消防車だったのだが。
今日、買い出しから戻った時、お隣さんからお知らせがあった。すぐ近くの若い奥様が突然死されたものだったようだ。4,5日前、ご夫婦とお子さん2人とフレンチブルドッグで散歩されているところを見かけて挨拶したばかりだった。ワンちゃんは以前写真を撮ってあげて、発行されたその本を差し上げたこともあった。余計なことかもしれないが、今後どうされるのかちょっと心配。


先日アップした小品イチョウの新芽、イチョウの葉形がしっかりしてきた。
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花台(白樺の木だったと思う)の焼き印、読めますかな?


昨日の就床前のこと、だるまさんからメールが届いているのに気づいた。1400字あまりの文が2本添付されていた。やっぱりコロナで外へ出られず、綴ったもののようだ。
名古屋市守山区大森あたりは、学生時代しょっちゅう通っていたので懐かしい。しかし、こんなにも由緒あるお寺があるとは全くも知らなかったし、若かったので興味もなかったのだろう。
あ、東谷六兵衛さんはだるまさんのペネーム、達磨さんやだるまさんとの使い分けは何なのだろうとふと思う。


   守山そぞろ歩き⑴ 大森篇
      『義経千本桜 狐忠信』ゆかりの法輪寺

                     東谷山六兵衛

 瀬戸街道の八剱交差点から少し北に入ったところに法輪寺の大屋根が見える。
 この辺りでは美味いと評判の「知多海」という料理屋の角を西に入ったところに山門があり、周りは民家が立ち並んでいる。比較的新しいつくりの山門の入口には「山門禁葷酒」と、刻まれた石柱が建てられている。酔っ払いと軍隊は立ち入るべからず、という意味なのだろうか。酔っ払いはともかく、葷も入るべからずとは、この寺の矜持が感じられる。
 そのすぐ右手奥に西国三十三か所由来の三十三の観音菩薩石像が鎮座まして、優しく微笑みかけて私を出迎えてくれている。
 山門前に掲げられている法輪寺由緒によるとこの寺の創建は貞観二年(八六〇)にまで遡るという。平安時代初期である。山門には「佛日山」という山号の額が掲げられている。
 山門をくぐると正面に本堂、右手には「ほうりん聖観世音」と書かれた高さ五メートル程の観音様が聳え立っている。
 私の関心のあった佐藤嗣信・忠信兄弟とその母堂の墓は山門を入って左側にあった。母を真ん中にして右手に嗣信、左手に忠信の小さな供養塔がひっそりと佇んでいる。
 佐藤嗣信・忠信兄弟とは源義経が頼朝の平家討伐の挙兵を知って、奥州平泉から馳せ参じた時、奥州の藤原秀衡が武蔵坊弁慶とともに義経に従わせた奥州きっての荒武者である。
 供養塔傍らの説明によれば義経の身代わりになって兄嗣信は屋島で、弟忠信は京都で戦死したと刻まれている。従者が二人の戦死を母に伝えるために奥州に向かう途中、正宗庵(法輪寺の旧名、当時はここより南の元郷にあった)という尼寺で病気療養中の母に偶然出会い、遺骨と遺髪を渡した。母は痛く悲しみこの正宗庵に懇ろに弔った。村人たちの悲しみも深く、次の年の正月に門松を立てるのを止めた。以後大森では正月に門松を立てない風習になったと語り伝えられている。
『義経千本桜』とは人形浄瑠璃、歌舞伎の演目の一つで義経の吉野への都落ちと実は生き延びていた平家の落人たちの悲劇を描いたストーリーである。この佐藤忠信は『義経千本桜 道行初音旅 吉野山』に義経に命ぜられ、静御前を守る役柄として登場する。
 しかし静御前を守る忠信、実は狐の化身である。静御前の持つ「初音の鼓」はこの子狐の両親の皮で作られたものであり、この子狐は愛おしい両親につれ添いたくて静御前を守っていたのである。次の段『河連法眼館』では本物の忠信から静御前の打つ鼓に合わせて狐(源九郎狐)に変身し、早変わり、欄干渡りなどこの歌舞伎で一番の見せ場となっている。この子狐の親子の情の深さにほだされた義経より忠信に成り代わっていたことを許され、初音の鼓を与えられる。その恩に報いて忠信とともに押し寄せる敵と大立ち回りを演じ義経の危機を救う、という幕切れである。
 義経は狐の世界でさえ肉親の情があるのに兄弟同士で殺し合う人間の世界に無常を感じていたのであろう。
 話は少しそれたが、歌舞伎の『義経千本桜』の華やかさとは似つかわしくないこの大森の地にひっそりと佐藤兄弟と母堂の菩提が弔われている寺を発見できたのはそぞろ歩きのおかげである。
 大森は古い寺社仏閣の多い街である。
 そぞろ歩きもまんざら悪いものではない。
 母親に寄り添うように建つ三つの供養塔に手を合わせた。「コン」というかすかな鳴き声を聞いたのは空耳だったのだろうか。
                     (縦書き原稿なので数字は漢数字になっています)

瀬戸街道とは、名古屋市東区から守山区、尾張旭市を経由して瀬戸物と将棋の藤井聡太さんで有名な瀬戸市を結ぶ通称で、県道61号線。
約45年前、吉川英治の『新平家物語』を1年かけて読んだのだが、もちろん義経は登場していた。佐藤嗣信・忠信兄弟については定かなか記憶がないので今夜就寝前に辿ってみよう。いずれにしてもこのような歴史上の人物に関してこんなにも身近な所にあったのかと、今頃に知った。
長く生きるということは、こういうこともあるのでもっと生きねばと思う一方、コロナが終息したらぜひ法輪寺で手を合わせようと思う。
やっぱり桜の季節がいいのかな。

ツルウメモドキ

4月28日、今日の外出は早朝の畑でオクラ2本を植えただけ。
このところ風が強く、どうも気になってしかたがないので小庭に植えたばかりの枝垂れ桃とソヨゴに杉の支柱(100円ショップの品)を咬ませて補強。


自作の中で気に入っているこの鉢に、ツルウメモドキを植えてからまだ1度も実をつけてくれない。
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いっぱいの蕾の中に一つ咲いた約3㎜の花。

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ところが約1.5㎜の蕾にはアブラムシが早くもついている。
問題はこれだなと、消毒を済ます。

今後もこまめに経過を観察しながら育てないと実は見られないようだ。
まるでコロナ対策のように油断はできない。

ご褒美

4月27日、3日ぶりの早朝の畑行き、豆類に水をあげないとまずいと思って出かけた。
これまで採っていたタマネギは早生品種だったのだが、今日は通常品種を7個収穫した。収穫期の目安になる葉が倒れていたので。


今日も自粛していたら、今度はモンキチョウのご褒美をいただいた。
(アニマルボイスさんから「キチョウ」ですよ、とメールが来ました。お詫びして訂正いたします(._.))
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ブーゲンビレアに停まってくれた。
先日はシャクナゲにクロアゲハだったのだが、忠実(?)に自粛をしていると神様の粋な図らいがあり、感謝である。

採ってきたタマネギは庭に日光浴をさせておいた。
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夕方、レシピを調べて1個をタマネギステーキにしたのだが、思っていたより美味しかった。
撮り忘れたのが残念。


長くかかったバリアフリー工事も終わったので、羽ばたきたいと思っていても、明日は何をしようかと考えてしまう。
最大の予定は、燃えるゴミを出すこと(ノД`)・゜・。

元気が出る? 「がん闘病記」その③

4月26日、曇り時々晴れだと私、家人さんは晴れ時々曇りでしたと譲らない。
昨夜のこと、PCのメールを開いたらだるまさんから2本のメールが届いていた。
最初の1本は写真だけだったのだが、活けられている花を見ると葉姿からオダマキのように思われた。
2本目のメールには、「さゑ姉さんからラインで送られてきました。花は『みやまおだまき』だそうです。花瓶は確か3年ぐらい前に作った釉薬は瀬戸黒です。花をいけると花瓶もうまく見えますね」と、連絡文があった。

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だるまさんは今では鶴首の花瓶を作ることができる腕前なので、3年前の作品に間違いないと思う。私は黒織部は時々利用したのだが瀬戸黒は知らない。よく似た雰囲気がする。
「さゑ姉」さんは俳号だろう、同窓生であこがれの人である。だるまさんが俳句と陶芸とお花で繋がっているのはnice! だと思う。

さて、同人誌『山波』194号の花田吾一さんの「がん闘病記」、いよいよ最終回の3323字。
花田さんが頑張ったように、皆がコロナにも負けることなく元気に生きていきたい。
あ、そうそう花田さんも、だるまさん、さゑ姉さんと同窓生だったんだ。
もちろん私も、蛇足でしたかな。


★手術
 年が明けると、いよいよ手術。
「どちらを先にします?」
 と訊かれ、私は子どもの手術の結果を知りたいので、子どもが17日、一週間後の24日に私が手術を受けることになった。国立がんセンターではいろいろな事例のがんを扱っているが、親子が同時期に入院し、同時期に手術を受けるということは、あまりないのではないのか。大変な事態なのだが、つい誰かに自慢したくなってしまうのは、すでに精神状態がおかしくなっているのか? とまれ、子どもの手術は午前9時に始まり午後6時に無事終了。
(正確に記すと、子どもの腫瘍はちょうど一年経った頃に再発してしまったのだが、再手術が行われ完治した)    
さて、次は私の番だ。
「やってみなければわからない」
 と言われた抗がん剤は運良く効いていて、腫瘍は入院当初の四分の一ほどに小さくなっていた。包帯の上からそっと触ってみても、しこりはほとんど感じられない。よしよしこれで簡単な手術で済むのかなと楽観していたのだが、これがオーマチガイ。腫瘍は2㎝ほどに縮小しているのだが取り残すと再発の恐れがあるためその周り5㎝(要するに直径12㎝!)をざっくりと切り取ると告げられた。足の切断という事態に至らなかったのはまあ幸いと言えば幸いだが、甘かった。怪しい部分をごっそりと切り取った跡には、「皮弁移植」という方法なんだそうで、切除した部分には足の膝上の後ろ側からこれまた筋肉ごとごっそり切り取って移植するとの説明があった(手術前日の妻を交えての説明)。
 手術時間の予定は約6時間。
 手術室に入ったのが午前9時ちょっと前で、その後は全身麻酔で全く意識なし。大きな声で名前を呼ばれて目覚めた。あ、終わったのか・・・と思いながら、最初に訊いたのが、
「今何時ですか?」
 午後の3時過ぎだった。その次に言ったのが、
「おしっこがしたいんですが」
「そのまましてください」
 まだ意識が半分-ぼーっとしていたのだろう。尿管を通して膀胱までチューブが差し込まれていることに全く気がつかなかったのだ。

★術後
 手術した日は集中治療室で一晩過ごした。よくドラマなどで患者が麻酔がきれたとたん痛くて叫んだり泣いたりするシーンがあるが、手術前に入れた麻酔薬のおかげか痛みは全くなかった(硬膜外麻酔といい、脊髄の近くに刺したチューブの先に薬の入った球体があり、そこから少しずつ痛み止めの薬が流れ込むというもの)。さすがプロの業と、これまた変なところで感心した。
 集中治療室では体はほとんど動かせない状態で、ひたすら眠りたいのだが長時間動かないと血流が悪くなるとかで一時間おきに看護士さんが来て無理矢理体を動かされるのであまり眠れず。翌日別に異常はないということで無事一般病棟へ。体からは5~6本チューブが出たまま。そして酸素マスク。医療ドラマでよくある光景そのままと言っていい。食欲は全くなし。 看護士から栄養分、水分は点滴で落としているから無理する必用はないと言われる。
 数日後、回診してきた医師がチューブの先についている袋をチェックした後、
医師「そろそろ尿管のチューブを抜きましょうかね」
私「抜くのはいいんですが、こんなにいろいろ(チューブを)つけているとトイレにも行きづらいのですが」
医師「そうですね。じゃあ、全部抜いちゃいましょう」
私「・・・・・」
 国立がんセンターでは、予想外のことがよく起こる。予想外と言えば、その翌日だったかに手術跡がほぼ塞がったということで、これまた何の予告もなしに抜糸となった。抜糸といっても米倉涼子主演の「ドクターX」を見たことのある人ならわかると思うが最近の手術の切り口は糸ではなくホッチキスのようなものでパチンパチンと止める。それをいきなりというか心の準備もできていないのにグイグイと引き抜かれたのだ。もちろん麻酔などない。痛いの痛くないの(どっちなんだ?)。長期入院で最も痛みを感じたのがこの瞬間だった。それでも体調は日々よくなってきていたので、回診してきた医師に、
私「そろそろ外泊許可出ませんですか?」
と、訊いたところ、
医師「では退院しましょう」
 と、いきなり言われて、またびっくり。手術後10日ほどであっさり退院ということにあいなった。先に退院している子どもも交え久しぶりに親子3人揃っての我が家が復活した。
 しかし、治療は、これで終ったわけではない。私には「念のため」の抗がん剤がまだ一クール残っている。まあ、そうはいっても、最大の懸案だった手術も無事終わり、抗がん剤もこれで最後だと思うと気も軽く鼻歌の一つも歌いたくなるのだ。1週間ほどしてがんセンターに舞い戻ってきた私の足取りは軽かった。ところが、そこでまたまた意外なことを告げられたのだ。
医師「一応、標準治療にのっとってやりたいので、抗がん剤治療は後2回やることになります」
私「えっ、1回のはずでは?」
医師「2回です」
 医師は、そんなこと言ってないもんねーという顔をして、ほとんど命令。もう終りだと思っていたものが終りではなかったというショックは大きい。100m競走でゴールが見えてきたと思った瞬間、もう100mあると言われたようなものだ。私は、咄嗟にこんな提案をしてみた。
私「今まではアドリアマイシンとイフォマイドで2日、 イフォマイドのみが3日で5日だったわけですが、アドリアマイシンとイフォマイドで1日、イフォマイドのみが2日の3日というのではダメでしょうか?」    
 もちろん、即時却下。
泣く子と主治医には勝てない。結局、以前と同じ抗がん剤治療を2クール。ただ、手術で腫瘍を除去した効果が出ているのか術前と比べて副作用は軽かったように思う。というようなことがあって、無事退院となったのはがんセンター入院の半年後のことだった。

★退院後
 がんで怖いのは再発である。
 入院したとき同部屋だったA君は夏に手術して早くも秋に再発だったそうで、さすがに暗い顔をしていた。再発したため九州から上京して来た人は、いい結果が聞けなかったのか、しょんぼりと挨拶の言葉もなく帰って行った。私も、退院後当然のように定期的な検診を受けることになった。それでも再発のリスクは術後時間が経つほど低くなるそうで、退院当初毎週だった検診の間隔が、1か月、3か月、半年と長くなり、現在は年に一度がんセンターの検診を受けている。たいてい毎年5月の半ばだが、この日は私だけでなく子どもも検診を受け、問題ないことを確認すると家族揃ってがんセンター近くのファミレスで食事をするのが「年課」になっている。
 入院したときにはまだ50代だった私もいつの間にか古稀を過ぎてしまった。
 この先がんの再発がなかったとしても残されている時間はそう多くはないだろう。映画 『生きる』の主人公は残された時間の中で己の生きる意味を問い、 生きぬいた。ドストエフ スキーの『白痴』の主人公ムイシュキン侯爵は死刑執行直前の人間の心境をこう語っている。
「もし死ななかったらどうだろう? もし命を取りとめたらどうだろう? それは無限だ! しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ! そうしたら、おれは一つ一つの瞬間を100年に延ばして、一物たりともいたずらに失わないようにする。そして、おのおのの瞬間をいちいち算盤で勘定して、どんな物だって空費しやしない!」(米川正夫訳)
 翻って自分の現実をみると、ただただ怠惰な生活を続けているだけのようにも思える。せっかく、がんセンターの医師や看護士、家族、友人に支えられ与えてもらった命である。こんなことでいいのだろうか、後悔はないのかと考え込んでしまうこともあるのだが、なかなか映画や小説のようにはいかないのが現実である。 ちなみに、『白痴』では、死刑を免れたその人物は、
「まるっきり違った生活をして、多くの時間を空費したそうです」
 と、されている。人生には「余生」などというものはないと私も思うのだが、まあ、これも自分の人生なんだと、自分に言い聞かせるしかない。
 生きているだけで意味があり、価値があるのだ、と。
 チャップリンも『ライムライト』の中で、こう言っている。
「There’s something just as inevitable as death. And that's life.(死と同じように避けられないことがある。生きることだ)」
 さてと、もう少し生きてみるぞ!


今月初め、昨秋採っておいた黄花おだまきの種を播いたのだがまだ発芽しない。タイミングを間違えているのかもしれないのだが、発芽するまで水やりを続けようと思っている。
今朝も菜園行きは自粛して、自宅で初挑戦の「スクナ(宿儺)カボチャ」の種を播いた。
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岐阜県高山市の甘い特産カボチャ、多分成功するだろうと思う。

元気が出る? 「がん闘病記」その②

4月25日、珍しく早朝の畑作業をする気にならず、今日も外出自粛モード。
小庭の空きスペースを探して春ダイコンを播いてやった。収穫までに至るだろうか?
畑にではなく庭にダイコンの種を播く爺さん、俳句にならないかなぁ、川柳かな。

福ちゃんは家人さんと至福の時間を過ごす。
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自粛をしていると私にもこんなご褒美が、クロアゲハかと思うのだが。
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正面から撮ろうと外へ出たら「ステイホーム!」と、逃げられた。

さて、昨日の続きである花田吾一さんの「がん闘病記」、えっー、そんなことがあるのぉ、と驚きの2985字。

★抗がん剤治療
 病院に戻って聞かされた検査結果はやはり悪性のがんで「悪性粘液性組織球腫」というもの。何万人に一人という希少がんだった。ただしここまではすでに覚悟していたわけで、PET検査の結果、転移はないということで少し安心する。まずは切開跡の雑菌を殺す必要があるということで、抗生剤の点滴が始められた。チューブにつながれているのはめんどうだが、点滴をしたらそれまでの変な臭いがたちどころに消えたのには驚いた。後生いや抗生剤恐るべし。
 そして、いよいよがん治療開始となった。
 まず抗がん剤治療を3クールやり、腫瘍が小さくなったところで手術。さらにその後、念のため再度抗がん剤をもう1回やるという治療方針全体の説明を受ける。
私「抗がん剤は効きますか?」
医師「やってみないとわかりません」
私「・・・・・」
 治療は、まず前日の夜から「流し」と称する電解液の点滴から始まる。これは、吐き気などの副作用をできるだけ抑えるためのものだ。翌日の午前中にさらに吐き気止めの薬を点滴で入れ、午後からいよいよ抗がん剤による治療が始まった。二種類の抗がん剤(アドリアマイシン=A、イフォマイド=I)を6時間かかって入れるのが二日、一種類の抗がん剤を4時間で入れるのが三日の計五日間。電解液は抗がん剤前日の「流し」から抗がん剤が終わった翌日までずーっと継続。要するに1週間点滴で繋がれっぱなし。入って来るものがあれば出るものも増えるわけで、夜はほぼ2時間おきくらいにトイレに行くことになった。この時の尿の量は数値がナースセンターに送られており、尿の量が予想より少ないと翌日さっそく利尿剤の点滴が追加される。
一日目 夕方より流し(抗がん剤を排出するための電解液の点滴)
二日目 抗がん剤二種類(A+I)6時間
三日目 抗がん剤二種類(A+I)6時間
四日目 抗がん剤一種類(I)4時間
五日目 抗がん剤一種類(I)4時間
六日目 抗がん剤一種類(I)4時間
七日目 流し終日(翌日朝まで)
前後に吐き気止めとか利尿剤などの追加注入があったりするため、この1週間は、だいたい午前11時に抗がん剤が始まって午後6時に終わるようなスケジュールの繰り返しとなる。私の場合、吐き気は初日の夜から感じられ始め以後治療期間中は全く物が食べられなかった。ひどいときには、水をちょっと飲んだだけで、うぐっとくるのだから辛い。初回のときは吐き気がおさまらないので最後の「流し」を1日延長してもらった。
しかし、ホッとするのはまだ早く、抗がん剤を終わって数日すると熱が出た。それも半端なものではなく、全身に震えがくるのだ。体温を測ってみたらなんと39.8℃。怖くなってその後は計らなかったがまちがいなく40℃を越えていたと思う。さらに白血球の減少。減少がひどいと白血球を増やす注射を射つのだがこれがまたとてつもなく痛い。そして副作用に代表のような脱毛ももちろんあるのだが、上の二つの副作用と比べたら屁のようなものだ。ただ、人間、眉毛がなくなると怖い顔になる。鏡に写る自分の顔がとても堅気には見えない。なるほど、それで映画で見るやくざが眉毛を剃っているのかと、変なところで納得した。
治療中、看護士が、
「きついですか」
 と訊くので、
「キツイねえ」
 と答える。
「そうですよね、抗がん剤の強さは、一に血液(競泳の池江さんなどの血液がん)、二に整形と言われていますから」
 と明るく言われてしまった。
主治医が来たときに、抗がん剤はどうやってがん細胞を認識するのかを訊いてみた。
がんは活発に細胞分裂をして増殖していくので、抗がん剤はそういう部分を狙い射つのだという。そのため血液を作る骨髄や毛髪、爪など体内で比較的細胞分裂の活発な部分はがん細胞と認識されて抗がん剤に攻撃されてしまうのだろうと理解。がんになったおかげ?で、ひとつ勉強になった。
さて、抗がん剤終了後1週間ほど血球値など副作用の治療をすると一旦退院となる(退院なので荷物も持って帰宅)。自宅で体力の回復に努めるわけだ。が、1週間~10日ほどすると電話がかかってきて再入院(書き忘れたが、国立がんセンターでは最初に「がんセンター」と名乗っていいのかどうかを訊かれる。がんは世間的にはまだまだ不治の病と思われているので家族にはまだ隠しておきたいという人もいるはずで、これもよく考えられた配慮だと思う。私の場合は家族、親戚、知人すべてにがんのことを話してあるのでOKしたが、そうでない場合はどう名乗るのだろう?)。
再入院後は、また同じ抗がん剤治療を受ける。私の場合、年内に予定通り3クール行った。自宅ではできるだけ体力の回復をはかるという繰り返しだが、ともかく食欲はずーっとないのであまり食べられない。体重はおもしろいように減っていく。結果、3回の抗がん剤治療で10㎏以上のダイエットに「成功」した。などと自慢している場合ではないのだ。
ともかく、抗がん剤が効くことを信じ、副作用の辛さに耐えてがんばるしかない。そう覚悟を決めていた時、大事件が勃発した!

★親子そろっての入院
ちょうど抗がん剤が終わって一時帰宅している時だった。
 子どもが、「右手が痛い」と言う。ゲームのやり過ぎだろうと思ったが、痛いというのを放っておくわけにもいかないので、妻が近くの医者に連れていった。私は次の抗がん剤治療に備えて自宅にいたが、まだ全身が怠く微熱もあるので、ソファに寝転んで少しうとうとしていた。ところに、電話が鳴った。びっくりして起き上がり受話器をとると、聞こえる妻の声がうわずっていた。
 触診した医者がちょっと変なのでとレントゲンを撮ったところ、右手親指に繋がる骨がほとんどなくなっている、というのだ。骨腫瘍の可能性も考えられる。いったい何がどうなっているんだ?わけがわからなくなって一瞬、頭の中が真っ白になった。それでも現実に戻れば、そう言えば、秋から時々右手が痛いと言っていたことをすぐに思い出した。その時、医者に連れて行っていれば・・・と後悔したが、今さらどうすることもできない。私の入院のことで私も妻も手一杯だったのだ。では、ではどうすればいいのだ? 気ばかり焦るが、私自身ががん患者である今は何もできない。
 そう思った瞬間、閃いた。
 そうだ、こんなとき相談できる医者がいるじゃないか!
 すぐ、がんセンターの主治医に電話をかけた。いつもは忙しくて待たされる主治医に奇跡的にすぐに繋がった。事情を話すと、できるだけ早く検診日を決めて知らせると言ってくれた。
「先生が、診てくれますか?」
「もちろん、私が担当します」
 子どもの診断は、数日後、私が再度の抗がん剤治療のため入院した翌日と決まった。私の初診のときと比べてずいぶん早いのは、主治医のおかげだと思う。感謝。診断があった日の夕方、抗がん剤で怠く、うとうとしていた私の所に主治医がやって来た。
「花田さん」
「・・・?」
「お子さんの腫瘍、多分、悪いものじゃないですよ」
 その瞬間、不安とストレスがスーッと消えていくのがはっきりとわかった。数日後、子どもの腫瘍は「巨細胞腫」というものであることがわかった。抗がん剤は必要なく、腰のあたりの「必要ない」骨を採り形状を整えて親指根元に繋がる骨を再建するのだそうだ。悪性腫瘍ではないにしても、けっこうな大手術だ。結局、年明けに親子揃ってがんセンターに入院することになった。
                               (明日に続きます)


これは、昨日菜園から撮ったハナミズキ
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手前は調整池なのだが、そろそろウシガエルが鳴き始めるのではないかと思う。